僕はあなたを幸せにはできない

夏の夜のことだった。
僕たちは公園の芝生に腰を下ろして月を見ていた。
満月ではない。何とかムーンとかいう特別な月でもなかった。半端に欠けて半端に満ちた、名も無き半端な月だ。
と言っても、中途半端に見えるのは満ち欠けの配分だけで、降り注がれる冷たい光は十分に明るかった。隣で空を見上げる僕の月下美人が、緑の影を背後に伸ばして煌めいている。
白い髪が月光を受けてきらきら輝く。繊細な色の睫毛で縁取られた目がちかちか瞬く。遙か遠い宙に浮かぶ名も無い月より、目の前で一心に夜空を見上げる名無しのエコーの方が、ずっと綺麗だ。
まあ今は、彼には「ナナシノさん」という立派な名前があるのだけれど。
今宵の月を随分お気に召したらしいナナシノさんは、さっきからずっと同じ姿勢で物思いに耽っていた。僕は気付かれないのをいいことに、その横顔を無遠慮に眺める。柔らかく閉じた唇につい目を奪われていると、不意にその端が弧を描くように吊り上げられる。
まずい、なんて身構える余裕さえも許されなかった。
「お前、俺のこと見すぎ」
ゼラニウム色の視線が、彗星のように落ちてきて僕をまっすぐ捉える。
ぎゅっと心臓が悲鳴を上げて、一瞬呼吸が止まる。気付かれた。いや、気付かれていた? 顔に熱が集まって、背中から変な汗が出た。
「…………ふゃ、」
何か言おうと必死に喉から声を絞り出したけど、出たのは声にもならない間抜けな音だけだった。
「なんて声出してんだよ」
ばつが悪くなった僕は目を伏せる。性懲りも無く、意地悪な微笑でさえ彼は綺麗だなんて思ってしまっている。人気の無い公園で、並んで一緒にお月見。あまり出会わない状況に、浮かれているのかもしれない。体の陰でこっそり手の甲を思い切り抓ってから、言い訳を考える。
「……。あんまり熱心に考え事をしてるみたいだったから、気になっただけです。何を考えているのかなぁって」
「ああ。別に、大したことじゃねえけど……」
思案げに巡る視線。言葉を選んでいるようだった。大したことではないといいつつ、言いにくいのかも知れない。確かに僕も、彼の横顔を見つめながら何を考えていたのかと聞かれたら「大したことではない」と答えるだろうし、とてもじゃないけどそのまま答えることはできない。
はて。彼の『大したことではない』考え事とはこれいかに。一応、教えてくれる気はあったみたいだけれど。
「……幸せって、何なんだろうな」
「え」
僕は思わず聞き返し、身を乗り出した。死ぬことばかり考えている彼には珍しいことだ。ナナシノさんは居心地が悪そうに眉を顰める。
「どういう風の吹き回しですか」
「いや、誰かさんがぼそっと、幸せだとか何とか言うから」
「へえ! 誰ですかそれは」
誰だか知らないけれど、その幸せ者には感謝をしたい。彼に前向きなことを考えるきっかけを与えてくれるだなんて。
あわよくば彼がこのまま明日への希望に目覚めてくれたらいいのに。
頬が緩むのを抑えきれずにいると、彼は呆れた顔をした。
「自覚ないのかお前」
「え。何の話ですか?」
「まあいいけどな」
「それで? 何か答えは見つかったんですか?」
ヒントでもいい。これまで一緒に過ごした中でこれだと思えるものがあったなら嬉しいけれど、そこまでの贅沢は言わない。僕の出来ることなら何でも手伝ってあげたい。そう思っていた。
そんな僕の希望を彼はたった一言で簡単に打ち砕く。
「やっぱり、俺の幸せって死ぬことだろうな」
世の中は甘くなかった。
そうですか、と返そうとして開いた口からは、大きな溜息が零れる。
「そんな気はしてました」
「ほんとかよ。そんな顔じゃないだろ」
「気のせいですよ」
むしろそこに思い至らなかった僕の頭がおめでたいだけなのだ。自分に都合のいいことばかり考えてしまった。
やけくそになって芝生に寝転ぶ。月はさっきより少しだけ、高いところに見えた。都会は僕の地元と比べて星が少ない。朧気に見える一等星だけ繋いでみたけれど、僕には何の星座も神話も思い浮かばなかった。
「……お前は?」
「僕の幸せですか?」
「まあな。俺から見たら、いつも幸せそうに見えるけど」
そうなのだろうか。どちらかと言えば悩みは多い方だと思うけど。
今も大絶賛、憂鬱な気分を抱え込んだところだ。幸せについて考えている気分ではないくらいに。だけど彼が興味を惹かれるものがあるなら、提供したい。僕自身のことなら尚更。思案を巡らせる。当たり障りのないことを言うべきか、本音を言うべきか。
「……植物を愛でたり、エコーの皆さんとお話ししたり」
「それは知ってる」
「それから。僕がああしたいとかこうしたいとか思ったことで、誰かが喜んでくれたりすると、嬉しいと思います」
「?」
「家族とか、友達とか。僕の好きな人たちを幸せにすることが僕の幸せだということです」
もちろん僕の『ともだち』であるナナシノさんのこともだ。
「今まで言ってなかったかもしれませんけど。僕は、あなたが本当に死ぬこと以外のあらゆる方法では、心の底から幸せを感じられないというのであれば……、この手で、あなたを死なせたいと思ってますよ」
「初めて聞いた」
「そう大きな声で言える話ではないですからね」
「でも、お前にはできないだろ。そんなこと」
「わかりませんよ」
僕は身体を起こして、彼の目の前に立った。彼は僕の表情を訝しげに窺っている。
ナナシノさんの背後で、僕の黒い影が彼の緑の影と重なっていた。黒と緑が混ざり合っても生まれる色は黒だ。美しくはない。僕は人間の黒い影があまり好きではなかった。
「僕はエウテルペに所属しています。エウテルペでは、エコーと人間が触れ合うための技術が開発されています。実現すれば、僕でもあなたに触れるようになると思いますし、僕がこの手であなたを死なせてあげることだってできると思います」
もちろん、できればそうしたくないとも思ってはいる。可能性の話だ。
できることならば彼には生きたいと思ってほしいし、やりたいことが出来たらどんなことでも手伝う。彼の憂鬱が少しでも晴れるというなら、どんな我が儘でも聞くし、それによって僕がどんな目に遭っても少しも構わない。
だけど。僕がどんなことをしても無駄だと言うのなら。生きることが苦しくてつらくて堪らないというなら。死のみが彼の幸福で、救いであるというのなら。
僕は。
「変な意地張るなよ」
僕の本気を彼は無情にもそうやって笑い飛ばしてのける。
「僕は真面目に話してるんですよ」
嘘をついた訳でも、強がった訳でもない。僕は本気でそうする心の準備を既に始めている。
生きてもらうことを諦めた訳ではない。けれど、時間のかかる手順は早めに始めておいた方がいい。
「だから言ってんだよ」
「……っ!」
かっとなって、腕を突き出してナナシノさんの両肩を押した。当然腕は空を切る。手には何の感触も残らない。
それでも彼の身体はゆっくり後ろ向きに傾き、音も無く倒れた。先ほど僕がそうしたように、両手を広げて夜露で湿った芝生に寝転びながら、彼は「やってみろよ」と囁いた。
「望むところです」
僕は彼に馬乗りになる。正確には彼の腰を跨ぐように両膝を立てた。
「重い」
「冗談を言わないでください」
へらへらした笑顔を睨む。僕たちはヒトとエコーだからお互いを感じることが出来ない。彼は僕の体重を感じられないだろうし、僕も彼の体温や呼吸を感じることは出来ない。芝生に着いた膝から、空気と地面の冷たさだけが伝わってくる。あえて見ないように努めているからわからないけど、足元は互いの身体が混じり合っているのではないだろうか。
「僕はやれます」
両手を彼の細くて白い首筋に添わせる。手の平には何の感触も、手応えも無い。
他人の首に触ったことなどないからわからないけど、彼がもしヒトだったら、皮膚越しに彼の脈動を感じることが出来たのだろうか。
「……」
指先に力を込める。これはデモンストレーションだ。自分がやがて『いつか』を迎えたときに、逃げられないように。イメージをする。柔らかい肌に自分の指先が沈み込む感覚。締まるにつれて苦しそうに歪んでいく表情。手の中で大切な、幸せにしたいと願うイノチが失われていく恐怖。
「……ッ!」
だめだ。逃げてしまいたい!
気付けば僕は固く目を瞑ってしまっていたし、唇を噛みすぎて口の中から血の味がした。自分の鼓動がうるさくて、頭がガンガン痛んだ。呼吸が乱れて上手く息が吸えない。苦しい。胸が苦しい。
「もういい、やめよう」
彼の制止の声で我に返ると、全身から汗がどっと噴き出してきた。変な筋肉を使ったらしく、腕の筋が張っている。
「意外と頑張ったな」
彼は感心したような声でお疲れと労ってくれたけど、僕はあまりの無様さに彼の目が見れなかった。
「お前が今何考えてるか、教えてやろうか?」
「……。やめてください」
「『エコーに触れられなくて良かった』」
「ちょっと」
「『ヒトがエコーを殺せなくて良かった』」
「お願いです」
「『エコーに触れられる日なんて、』」
「言わないで」
「『来なければいいのに』」
「…………ッ!」
ちょうど、たった今。聞こえないふりをしたばっかりの、心の声だった。
「どうして」
どうして、僕はこんなにも、無力なのだろう。
「おまえに俺は殺せない」
「……今はそうかも知れない。でも、いつかきっと」
「いつかなんて来ねえよ」
「そんなこと」
「今わかっただろ」
「……。じゃあ、どうやって僕はあなたを幸せにしたらいいんですか」
無意識に思わず転がり落ちた言葉に、僕ははっとした。目線を上げるとナナシノさんがきょとんとしている。彼はまだ気付いていない。けれど僕は気付いてしまった。
「する必要がないだろ」
「じゃあどうやって僕は幸せになったらいいんですか」
僕の無力な両手は彼を幸せになんて出来ない。無力な僕は彼を死なせてやることなんてできない。それなのに僕は彼の幸せを切望していた。彼を幸せにするという、己のエゴを満たしたいと渇望していた。
「俺以外の誰かを俺の知らないどこかで幸せにしてやればいいだろ」
「それじゃあどうやってあなたは幸せになるつもりなんですか」
「死ぬだけだろ。音を食わずに消えるか、音をたくさん食って自殺するか、それともお前以外の誰かに……」
「それは駄目ですッ!!!!」
出した声の大きさに自分で驚いたけど、そんなことを気にかけている余裕なんてなかった。ナナシノさんは僕の突然の大声に面食らっていたようだった。制止が利かない。
「他の人にあなたを奪われたくないです」
無理な体勢を支え続けた膝がびりびり痺れていた。僕の理性や自制心や今まで抑え込んできたものたちが、ぶちぶちと引きちぎれて外れて行く音がした。
「あなたを失うのなら……僕がやる! 僕じゃなきゃいやだッ!」
僕は心の底から彼を幸せにしたいと祈っているくせに、僕の無力さは、彼を失いたくないという願望は、彼の望みを叶えられない。その上、自分以外の誰かが彼の望みを叶えることを、僕の幼稚な独占欲は、認めようとしてくれない。
相反するエゴが互いに足を引っ張っていた。
僕の願いは、想いは、『友情』の線を超える『何か』は。再び、相手の幸福を阻害しようとしている。『何か』は誰にも祝福されず、望まれず、初めから無かった方が良かったものとして葬られていく。
「ごめんなさい、僕にあなたを……幸せにさせてください……」
自分の声が徐々に水っぽくなっていくのを聞いた。膝がとうとう耐えきれなくなり、地面にへたり込む。ナナシノさんの頭の脇に両手をついた。僕と彼の顔の距離はこれまでで一番近いはずなのに、彼の表情は、滲んでしまって見えなくなっていた。
「……泣くなよ。俺なんかのことで」
「泣いてる訳ないじゃないですか」
だって、煙草の煙もないし、雨も降ってないのに。それなのに僕の声には嗚咽が混じり、ぐしゃぐしゃになっていた。
泣けるはずがないのに。泣くべきときに泣けなかった僕は、上手な泣き方を忘れてしまったはずだったのに。13歳の6月、結婚式のあの日に。
「泣いてるじゃねえか」
彼の手が伸びてきて、僕の目元の辺りを撫でるように滑った。けれど涙は彼の手をすり抜け、冷たく黒い地面へと、吸い込まれていった。

error: Content is protected !!