訊かないで、察して

「ねえ、春告くん」
 それはとある昼過ぎの話だった。
 狸人さんに来客があった後、俺は事務室の手洗い場で、茶器を片付けていた。
「今のお客さん、どう思った?」
 狸人さんからの唐突な質問に、俺は正直戸惑った。
 どうって何だ? 別に不審なところはなかった。どちらかといえば善良そうな、普通の職員という印象だ。
 強いて言えば戦闘員だと名乗った割には弱そうだった。戦えんのかな、あれで。
 気になったのはそれくらいだろうか。
 と、真面目に伝えたところ、彼は呆れた顔で首を振った。
「そうじゃなくて。格好良くなかった? 背も高いし、声も低くて……大人の男っぽかったよね?」
「そういう話すか。いや、別に……あんまり気にして見てなかったからどうも思わなかったっす」
 思ったことをそのまま伝えると、彼はふうんと気の無い声を出し、膝の上で手遊びを始めた。
「気にしないの? 周りの人とか……」
「必要最低限は気にしてるっすよ。ぶつかったら揉めちゃうんで」
「違う。格好良いなとか可愛いなとかあるでしょ、いろいろ」
 そう言われても。
「話したことない相手には興味湧かないんすよね」
「……どうして?」
 上擦りかけた声に、思わず笑みが溢れてしまう。ふと目線を遣れば、期待の篭もった視線が俺をじっと見上げている。
 ほんのちょっとの悪戯心。と、いつもの仕返し。
「なんでだろ」
「わかんないの?」
「わかんないっす」
「……自分のことなのに?」
 にこり。
 黙って微笑んで見せると、狸人さんは椅子から浮いた足をぱたぱたさせて、体を揺らした。何か言いたげに口を尖らせて、つまらなさそうに視線を下げる。
「でも、あの子は気にしてたよ」
「あの子?」
「さっきのお客さん。きみのこと褒めてたよ。綺麗だし、姿勢いいし、動きもきびきびしてて良い子だねって」
 そーなんだ。全然聞いてなかった。
「きみがフリーだったらバディにスカウトしてたかも……って言ってたよ」
「何て答えたんすか?」
「……」
 もにょもにょと口元がうごめく。
 言葉は返ってこない。
「怒ってくれたんすよね?」
「……」
 小さな頷き。ふっくらした頬がじんわりピンクに染まる。
「……あのね。きみを譲ってほしい、バディを交代してほしいって交渉を受けたこと、これまでに何度もあるんだよ」
「え? 初めて聞いたっす」
「きみの耳に入る前に断っちゃうからね。でも、そんなことを言ってくる人ってさ、実際僕より強くて優秀な人たちなんだよ。僕の手元に置いておくのは勿体無いって言われたことも何度だってあるし……」
 失礼な。狸人さんより強くて格好良い男なんているわけねーだろ。
「僕よりきみに相応しい人がきみの目の前に現れて、バディを組んでほしいって言ってきたら、きみ……どうする?」
 弱々しく頼りない声が、俺に甘えている。
 この人は臆病者だから、俺が言葉で示すのを待っている。
 俺は、確かな答えをとっくに持ち合わせているくせに、悩むふりをしながら可愛い甘えん坊のくちばしを指先で摘む。
「どうしてほしい?」
「…………」
 ふ、と溜め息をつく。
 この人は、おねだりも下手くそだ。
「あんた以上に俺に相応しい人間なんてこの世に一人もいないっす。俺はあんたしか見てないし、あんたしか見えないんで。って言ったら、あんたは安心してくれるっすか?」
 唇から離した手でそっと、頭を撫でる。
 狸人さんのピンクのほっぺが赤みを深めて色づいていく。
「違うもん。別に……僕、不安だなんて言ってない。行きたいところに行けばいいんだよ、僕のことなんか気にせずに」
 桃みたいだった頬は瞬きする間にりんごになってしまった。食べ頃の熟れたりんごだ。口を付ければきっと、甘酸っぱくて、美味そうだと思う。
「そうすか? でも、俺の行きたいところはここしかないんすよ。あんたの隣。無理やりどっか連れてかれても、多分戻ってきちゃうっす」
「……じゃあ、好きにすればいいけど……」
 声ちっさ。しおしおと小さくなっていく肩を横目で見ながら、こっそり笑う。
 またバレたら何笑ってるんだとか言って怒られそうだし。
「狸人さん」
「何さ」
 そっと、彼の隣に膝をつく。
「ぎゅっとしてほしいっす!」
「えっ……ちょっと。ここ、職場だよ?」
「一瞬だけ! どーしても! おねがい!」
「い、今じゃなきゃだめなの?」
「今! 今すぐ!」
 戸惑いの表情も束の間。すぐに口元が緩んでいく。堪えきれない笑みを浮かべた狸人さんが、やれやれと肩を竦めてみせた。
「そんなに言うなら……しょうがないなぁ」
 大きく広げた両手を俺の首の後ろに回して、彼は俺に抱きついた。自覚はあるのか無いのか知らないけれど、触れた頬がすりすりと擦り付けられる。
「あのさ、春告くん」
「なんすか?」
「あのね、ええとね、僕ね……」
 狸人さんは俺の耳元でもにょもにょと何か言おうとしたあと、結局、いつものように何でもないと呟いて大人しくなった。
「……満足したら教えて、仕事に戻るから」
「あはは。わかったっす」
 ぎゅう、とシャツの首の後ろが握り締められる。まだ言わないで、の合図だ。
 口では何にも言わないくせに、わかりやすくて仕方ない。愛らしい人だなと思う。
 抱き竦められたまま頭を傾け、ぎりぎり届くピンクの首筋にキスをする。
「っひゃ、……何すんの、えっち」
 びくりと肩が跳ねた。
 声が微かに震えている。
「キスしたくなっちゃったっす」
「……僕は今はしたくないもん」
「ほんと?」
「…………」
 沈黙。
 両腕を緩く振りほどけば、涙を浮かべた大きな瞳が俺を上目遣いに睨んでくる。
「……そんなにしたいなら、すれば」
「たはは!」
「何笑ってんのさ!」
 とうとう堪えきれなくて案の定怒られてしまった。不機嫌そうに再び開かれかけた唇を慌てて塞ぐ。
 ふにふにと柔らかいそれを軽く食んだままじっとしていると、焦れたように身動ぎしたあと、舌が滑り込んできた。
「ん、んぅ……」
 絡んだ舌の隙間から漏れた声は俺のではない。細められた目が不意に閉じて、滴がほろほろ転がった。小さな手が、縋るように俺のシャツの胸元を掴む。
「……すきだよ……」
 息継ぎの合間に囁かれた、蚊の鳴くような愛の言葉。
 ああ、たまんねぇよ!
 叫び出したくなるのを堪えて、小さな体を抱き締める。あんなに強くて格好良い俺のご主人様なのに、今は俺の腕の中で縮こまって震えている。
「俺もっすよ!」
「俺も……何?」
「好き。俺も好き。狸人さんが好きっす!」
「……あっそ」
 素っ気ない言葉と同時に額が俺の胸元に押し付けられる。
 少し経って、きゅうん、と鼻にかかった声が聞こえた。

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