「とりっくおあとりーと!!」
ばさりとマントがはためく音に、僕は露骨に眉を顰めた。
昼間も昼間、まだ午後にも授業が残る平日の昼休みの教室で、刺繍の入ったマントを羽織った吸血鬼に絡まれるとは。
全く予想をしてないわけではさすがになかったけれど、ここまでとは思わなかった。
「あにき、ハッピーハロウィーン!」
豪奢な衣装をそれとは見せない、屈託のないというよりは、緊張感のない笑顔。
十字架も銀もニンニクも、丸ごと気付かず平気で囓って笑ってそうな吸血鬼の名は、野凪幹也といった。中学時代に中間テストでマイナス五点を取った男だ。
「はいハッピーハロウィン」
「ひゃっほう! 今年は何これ?」
「ガトー・オ・フロマージュ・ブランです。チーズケーキだと思ってください」
用意していたおやつを手渡す。生ものだから早めに食べろと忠告するより前に、彼が手づかみで口にケーキを放ってもごもごと咀嚼し始めた。
「せめてフォークを使ってくださいよ」
「うんま! 俺チーズケーキ大好き! 次もこれが良い! バレンタイン!」
会話が通じていないし、その前にはクリスマスがある。
暴投気味の彼との言葉のキャッチボールに必要なものは、妥協と諦めだった。
「そんなことよりコスプレなんかして、どうしちゃったんですか。これから教室巡ってお菓子集めでもするつもりですか?」
彼はえへんと鼻を鳴らして、誇らしげにふんぞり返る。中に着ているベストも上等な布を使っているものと見た。衣装作りを嗜む者としてかなり羨ましい品である。
「ナイン! 目的はお菓子じゃないぜ!」
「お菓子じゃない? となると……悪戯の方ですか?」
「ヤー! ハロウィンといえばトリックオアトリート、だけどみんながみんなお菓子を持って学校に来るわけじゃないことは、俺にはお見通しなのだ! お菓子を持ってないということは悪戯ができる! 悪戯の意味はわかるな? そう、おっぱいだ!!」
「あなたは馬鹿なんですか?」
選ぶべき言葉はその大半が僕の脳みそから家出していた。
彼の頭の悪さに恐れを成して、逃げ出したのだと思う。
「狙い目はこういう日にもお菓子の持ち込みをしてこなさそうな真面目なあの子とか、甘いのが苦手なこの子、はたまたイベント自体に興味のなさげなあの子ってとこかな。マル秘ノートを買収したからデータはばっちりだぜ。胸のサイズもな!」
「すみません。もう一度言わせてください。あなたは馬鹿なんですか」
何か喋っていないと溜息が止まらず酸欠になりそうだった。
誰が作ったか知らないけれど、マル秘ノートとやらは、理解ある者以外に流出したらさぞよく燃えるのだろう。僕は決して理解者ではないけれど、巻き込まれたくもない。
存在自体を記憶から消して、知らなかったことにすると決めた。
「さぁてどこ行こっかにゃ~」
ページを捲る彼の手と、文字を追う彼の目線を眺める。
「そんなこと言って。明らかに『誰』か、探してるじゃないですか」
「んふ。バレた?」
「相手が決まっているなら真っ直ぐ行けばいいのに」
「堅いこと言わさんな~」
冗談めかして言うけれど、僕は薄々気が付いていた。
行くのは決まっているけれど、まだ覚悟が決まらないのだ。
変なところで小心なんだから。僕は肩を竦める。
「ちなみにどこ行くつもりなんです」
「えっ! そんなの……好きな子のところに決まってんじゃーん!」
「……」
「何だよあにき、澄ました顔しちゃってさ! 男は誰でもあらゆる手段を使って好きな子のおっぱいを揉みたいと思ってるって知ってんだからな!」
そんな大きな声で言うことではない。
僕は周りを見回して、女子がいないことを確認する。聞かれたら大問題だ。
「え? もしかしてあにき、一度も考えたことないの? 信じられない! もしかして好きな子のおっぱい揉みたくないの? 嘘、お尻派?」
「あなたは僕をナメてるんですか。揉みたいに決まってるでしょ!」
「うわッ安心した! ちなみにナナチャンは巨乳? 貧乳?」
「まな板ですッ!!」
「良いよね貧乳。俺は巨乳が好きだけど!」
僕だってできるものなら好きな子の胸を揉みたい。
たとえぺたんぺたんでも、何の感触もなくても、許されるなら揉みたい。
その白い肌に手を滑らせて、いつもは見せない反応を僕に見せるところが見たい。
できるなら恥じらうところが見たい。
「僕だって好きな子の胸が揉みたいに決まってるでしょおおっっ!!」
「さっき聞いたさっき聞いた声がでかいッ! 女子に聞こえるッ!」
ついでに誤解なきよう注釈を付けさせてもらうと、彼が言ったナナチャンというのは僕のイマジナリー彼女で、クラスメイトの話に合わせるために一から創り出した架空の存在だ。実在する人物やエコーとは何の関係もないしモデルもいない。だから揉みたいと言っても特定の人物の胸を指すわけじゃないから許される。嘘じゃない。本当だ。
「おっぱい万歳! それじゃあ行くか! いざ一組へ! 当たって砕けろだァ!」
「待ってください。一組ってもしかしてあなた那舟さんのところに行くつもりですか」
「当たり前だろォ!」
いや、彼が那舟さんのことを好きなのは僕も承知の上だけれども。
そんな馬鹿みたいな頼みを聞いてくれるような人じゃ確実にないのも知っている。
「死にますよ! せめてみはるんにしといたらどうですか! 僕アポ取りますから!」
「違うじゃん! みはちゃんはそういうあれとかじゃないじゃん! みはちゃんには、なんかそういう邪念的なサムシングは持ち込んだらだめじゃん! アイドルだから!」
「えっちしたいとかパンツの色が知りたいとか言ってる人のセリフじゃないですよ! それじゃあ、那舟さんには持ち込んでもいいって言うんですか、その邪念とやらを!」
ナギさんは床に両膝を付いて拳を叩き付ける。
「それは別問題じゃん! いいとか悪いとかじゃないじゃん! 好きな子のおっぱいは揉みたいものだってあにきも認めてたじゃん! それにずるいよ……あのおっぱいは、あのおっぱいは何かもう、……揉みたいじゃんか!!」
「那舟さんに殴られてしまえ!」
もうしらない。僕は止めたからな。
彼とは付き合いが長いけど、那舟さんも大事な友人だ。
そんな明け透けな欲が彼女に向けられていることはあまり知りたくなかった。
「勝算はあるんですか?」
「ある! あかりちゃん多分甘い物そんな食べない方だろ。存在がビターな感じだし。お菓子持ってなければ、あとは悪戯するだけ……そう、揉むだけッ!」
「それは勝算とは言わない!!」
脱兎の如く駆け出した彼を、僕は慌てて追いかけようとした。
けれど彼の足の速さに僕が追いつけるわけもなく、足が縺れて転ぶ。
「あかりちゅあああああん!」
「ナギさん!」
さらば、僕の腐れ縁。
あなたの勇士とマイナス五点の答案用紙は忘れない。
僕は溢れてもいない涙を袖で拭いながら、のっそりと起き上がり、一組へと向かう。
あの勢いなら速攻即敗、と言いたいところだけれど、そういかないということも僕はよく知っている。
「……さて、」
扉の陰に隠れるように、そろっと教室の中を窺った。
進学クラスの生徒の胡乱げな視線が背中に刺さるのは、この際仕方ないものとする。
「だっだだ那舟しゃん…………ごきげんよう……今日もトッテモカワイイネ……」
「あら、野凪じゃない。どうもありがと」
やっぱりな。
野凪幹也という人は、普段はあんなに騒々しいのに、好きな子の前にいるときだけはこうして縮こまるのだ。普段もこれだけ大人しければ、僕ももう少し助かるのだけど。
「あら、その衣装どうしたの。よく似合ってるじゃない」
「えっあッ似、似合う? ンッフ、フッフフヒヒ、フヘッヘ」
「いいんじゃない。あんた意外とちゃんとした格好が似合うタイプみたいね」
彼の気色が悪い笑い方のせいで良い雰囲気とは言えないけれど、滑り出しは順調だ。どうやら那舟さん、今日はかなり機嫌がよろしいらしい。
「だ、那舟しゃんは黒猫とか、似合いそうだね……」
「そうかしら。猫はなるよりも愛でる派だけど。もしかして見たかった?」
「アッ違ッ見たいとかじゃなくてンンッいや確かに見……間違いなく見たいんだけッどンッゲホッオぼっへッ」
あーあ何やってんだあの人。さっきの威勢はどこいったんだよ。
困ったように向けられた視線を僕は断固無視した。
助け船の代わりに軽く手を振り、いけ、と煽ると、彼は一瞬絶望を顔に滲ませた後、腹を据えたかのようにきりりと眉を引き締めてみせた。
「せ、せ、せ、……せんえつながら……」
こちらから見える彼の横顔がぶるぶる痙攣している。大丈夫かあれ?
「と、トリックオア……トリッ……トッ、トリ、鳥?」
「トリート」
「トリックオアトリート!」
よし、言えた! 偉いぞ!
僕は思わず床を叩いた。すぐ近くの席の男子生徒がびくりと身体を揺らした。許せ。出来が悪いと言えども教え子の、一世一大の大勝負なのだ。
ちなみに正解を教えたのは僕ではなく那舟さんだ。目的はトリックなのだから、まあトリックオアトリックでもあながち間違いではなかったと思う。
那舟さんは顎下で指を揃えて一瞬逡巡するかのように、目線を低く泳がせた。
長い睫毛が揺れる。
それから口許に笑顔を浮かべて、机の中から小さな猫型のポーチを取り出した。
「はい。ハッピーハロウィン」
ナギさんの手の平にちょこんと、あめ玉が乗っかった。
敢えて黙っていたのだけれど、僕は彼女が甘味を愛していることをよく知っていた。
読書をしながら口にあめ玉を入れるところをよく見かけていたし、何より僕が作ったケーキをしょっちゅう食べてもらうからだ。
脳を使うには糖分は必須、というセリフもよく聞く。自分に言い訳するためのセリフなのだということに、この間ようやく気が付いた。
「一生だいじにする……」
「だめ。食べなさいよ。それ、あたしのお気に入りの味なんだから」
彼女に諭されたナギさんは、まるで小さな子供のように素直にこくりと頷いた。彼の目がきらきら輝くのを見て良かったなぁ、などと他人事ながらに感動してしまう。
そろそろ迎えに行こうかと腰を上げかけたところで、彼女の薔薇色の唇が悪戯っぽく艶めくのを視界の端で捉えた。
「でもそうね、せっかくだから、あたしも言っておこうかしら」
「へ?」
「トリック・オア・トリート」
おっと。
僕はもう一度、床に腰を下ろした。もはやただの野次馬だった。
「お、俺お菓子持ってない……」
ナギさんが泣きそうな顔をして、おろおろと狼狽えている。
さっき手に持っていたお菓子、全部人からのだったのか。僕のケーキももうない。
「あら。それじゃあ悪戯ね。目を瞑ってくれる?」
「目!?」
目!?
何をするつもりなんだ彼女!
那舟さんのことだからそんなにひどいことはしないと信じているけれど。
僕はナギさんが目を瞑るのをハラハラして見守りながら、一挙一足を見逃すまいと、身体を乗り出していた。傍から見たら不審者だとか今はどうでも良かった。
もしかしたらこの場で一番期待しているのは僕なのではないか。
そんな考えが一瞬、頭を過ぎる。
「……」
「……」
「…………あれ?」
誰も動かなかった。
彼女がぷ、と噴き出して、楽しげな笑い声を上げる。
「ふふ、おっかしい。トマトみたいな顔しちゃって」
彼女の細い指先が彼の鼻をつまんだ。ふぎと間抜けな声を上げ、彼が一瞬よろめく。
「はい、悪戯おわり。そろそろ予鈴が鳴るから、あんたたち帰りなさい。二人ともよ」
おっと。僕がいるのもバレていたらしい。
そりゃそうか。あんまり隠す気なかったし。
涼しげな彼女の視線を受け止め、僕は肩を竦めてみせた。
「あにきぃ……」
「はいはい、お帰りなさい」
真っ赤な顔でふらりふらりと出てきた彼を、僕は暖かく出迎えた。
いつもよりはよく頑張れた方じゃないかと思う。
「ねえあんたはやらないの?」
「あは。僕はお菓子食べないですからね」
「そうじゃないわよ。あたしにしてどうするの。あのエコーのところには行かないの、って聞いてるつもりなんだけど」
「え?」
思わず振り返る。
那舟さんは悪戯っぽく微笑を口許に浮かべる。
下手な仮装やコスプレなんて不要なくらいに、妖艶な小悪魔の微笑みだった。
「エコーにお菓子ねだったって、貰えるわけないじゃない?」
「は?」
「あんたは上手くやんなさいよ。上手に躱されないようにね」
そう言って彼女は、胸元のスカーフを、ひらひらと指で揺らして見せつけた。
男は誰でもあらゆる手段を使って……何だったっけ。
一瞬脳裏に馬鹿な欲望がちらりと過ぎって、ついでに見慣れた誰かの鎖骨を鮮やかに連想した僕は、顔に体温がぎゅっと集まっていくのを感じた。