小指/贈り物/止まる
この手に残った、たったひとつだけを手にして、私は走る。
後ろから罵声が聞こえる、捕まえろという声が聞こえる。当然だ、それだけのことをしたから。
けれどもこれだけは、これだけは――……。
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「……きみ……ここまで逃げてきたのかい」
教授はそう言うと、本気にするとは思わなかったな、といいながらもその女性をひとまず玄関に迎え入れた。いつだか、ものを教えた覚えがあるから、或いは自分の生徒だったか、どこかの学会の人間だったか。詳細を思い出すには書類をひっくり返さねばなるまい。
「はい。……中に、入れてもらえますか?」
「いいけれども……」
追われてない? と問われて、女性はちらと背後を見る。教授もまた同じ場所を注視した。騒がしい声も、足音もなく、郊外と言っていいこの場所に、何かを暴く者の気配はない。おいで、とどこか間延びした声とともに教授は女性を家に上げる。車椅子できぃ、と動こうとした彼を、女性は慌てて私がやります、と言って押そうとした。
「べつにいいよ~慣れてるし。それよりきみの怪我の手当ての方が先」
わずかににおう錆たそれ、出血した腕からはとうとうフローリングに血が滴った。
「ごめんなさい、汚してしまって――」
「傷口抑えといて。包帯とってくる。アー、明日来るハウスキーパーさんには……そうだな、鼻血出たってふんわり伝えとくから」
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私は包帯を先生に巻いてもらう。妙に手際が良いのを、ぼんやりと眺めていた。
以前、先生にはストーキングされていたことを相談して、なんだかんだと行政の手続きのすべてを手伝ってくれた大恩がある。
その時に、『なにかあれば、いつでも家に逃げ込みなさい』と言われて、連絡先を渡されていたのだけれども――こちらも、本当に助けてくれるとは思わなかった。
「……あ、結婚指輪。したの? 結婚」
先生は私の左手を見てぽつりと言う。黒手袋に包まれた手はちょいと私の薬指をつついた。
そうだった、色々とあって、先生にはこの報告ができていなかったっけ。
「半ば詐欺みたいなものでしたが」
苦笑いしてしまう――所謂反社、と言われる方々のお仲間さんでした、そう言うと先生は手を叩いて笑う。
「ワハハ! ってことは、足抜けしようとして追われた感じかい?」
「ほとんどそんなものです。お恥ずかしながら……」
「だから結婚の時に色々と渋る人間は辞めろと伝えておいたんだ、きみは善良すぎる」
先生はそう言うと、私の薬指から結婚指輪を抜き取って、手の平の内に握り込んだ。再び先生が手を開くと、結婚指輪はなくなっていて。
「――……」
「縁切りのおまじない。なんてね」
笑いながら、手早く私のナイフで切られた腕を処置してくれた。……血が流れすぎたのか、少し頭がくらくらするけど、大丈夫、死ぬような怪我じゃない。
「ありがとうございます。このあとは、警察に行こうかと……」
「んん、それならぼくが110番するよ。こっちから行くより、向こうから来てくれた方が安心だ」
夜道にきみを放り出されたらきみのご家族に恨まれる、きみは脇が甘い、と先生は呆れかえったように言って、それはそうだと思った。
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――疲れたのか、ソファの上でうたた寝する彼女の右手の小指について指輪を見る。
なんてことのない、ファッション用の指輪。
「……あ、先生、警察は来ましたか?」
「郊外だからねぇ……もちょいかかるかも」
小指に教授の目線が行っていることに気づいた女性は、これですか? と示す。
「うん、結婚指輪とはまた別? 縁切りのおまじない、まだ要る?」
「いえ、これは……切ってはいけない縁なので」
「というと」
女性は恐縮しきりの様子でぽつぽつと話す。
――夫の連れ子の、お母様が大切にしていたものらしいんです。
――連れ子といっても、ほとんど私は関わらせてくれなくて、どんどん恐ろしいことを大人は詰め込もうとしました。
――あの子は、あんな環境で育つべきじゃない。だから、私はあの子をシェルターに逃がしました。
――それが反感を買って……。
「今に至ると」
「はい」
女性は祈るように手を組む。腕の痛みは未だ鮮明で。
ああ、早く夜が明けないだろうか。
そう考えていたら、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「こういう時ばかりは、天使のラッパみたいに聞こえるね」
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この手に残った、たったひとつだけを手にして、私は居る。
これが失せてしまえば、あの子に渡せるものはどれほど少なくなってしまうのだろう?
だから、これだけは、これだけは――……。